学校法人 鈴蘭幼稚園

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園長のことば 2008年度

すずらんの花2008年度
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3月「感謝して」

2008年度最後のすずらん便りを記すにあたってこの一年をふりかえります。昨年の秋以来、世界が、この国がたいへんな苦境に追いこまれています。 そしてこの鈴蘭幼稚園もかつてない困難に遭遇しています。にもかかわらず、今月の保育主題は“感謝して”といたしました。

最近一人のお母さんがお書きくださった、連絡帳の文の一部をここに紹介させていただきます。
〈先日、来年度から変わる鈴蘭幼稚園の説明をお聞きしました。社会の在りようを含めて様々の価値観の変化の中で、色々と検討してくださったこと大変だったと思います。昨年度入園前のことをふりかえってみます。すずらんを選んだ一番の理由は“あたたかさ”を感じたことでした。園長先生のお人柄はもとより、その雰囲気が園全体を包んでいたことが心に残っています。それは今も続いています。

その“あたたかさ”を失ってほしくないという思いが今もとても強いです。給食や保育時間の延長などを売りものにして人数を増やすのではなく、“あたたかさ”を大切にしてすずらんをアピールしていただきたいなと感じます。
私たち保護者もすずらんアピールのために協力できたらと心から願っています。〉
なんと有難い、そして力強いお励ましのお言葉でしょう。

三月、いちょうさんたちが巣立っていきます。毎日お弁当を作り、通園の送り迎えをしてくださったお母さん、お家のみなさまに、そしてこういうふうに鈴蘭幼稚園を選んでくださった保護者のみなさまに心から感謝して一年を終わります。
有難うございました。

 

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2月「信じる」

“わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださるのは神である。だから植える者も、水を注ぐ者もとるに足らない。大事なのは成長させてくださる神のみである。”という聖書のことばを私たち鈴蘭幼稚園はここでの教育の基本理念としています。そしてこのことばの更に根底には、“神はお造りになったすべてのものをごらんになった。見よ。それは極めて良かった。”ということば(理念)があります。

神さまはこの世のすべてのものをお創りになった。 いのちあるものにいのちをお与えになっている――ということを信ずることができますか。私たちに、子どもたちに、生きる力を、成長していく力を与えてくださっている――ということを信ずることができますか。

子どもたちを成長させてくださるのは、そのいのちを与えてくださった神さまで、そのいのちをこの世に生みだすことにあやかり、水をやり糧を与え世話をする私たちは、それぞれの役割分担に応じた祈りと愛情をもってここに存在しているのだ――ということを信ずることができるでしょうか。

この今月の保育主題、“信じる”ということについて、みなさまにずいぶんたたみかけるように“信ずることができますか。”“できますか。”と、つい問いかけさせていただいてしまいましたことをおゆるしください。“育ててやっている”“思うように育てられない”といった人間的なごうまんさを去って、いのちを与え成長させてくださる方への祈りをもって、私たちの託されたものとの出会いを感謝して、愛情をこめてと願うその根底に、この“信じる”ことがあることを思います。

 

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1月「とりくむ」

考えてみると私たちの人生というものは、絶えず何かと取り組んでいるように運命づけられているといってよいのではないかと思います。そう思ってこの取り組むという言葉を考えていると、それだけで自然に肩に力が入ってくるのを覚えます。

時には何も考えずにぼけーっとしていたい。できれば力まずに自然体でーと思っても、それが次なる取り組みへの準備だったりすることに苦笑してしまうこともあります。
そこにゆくと、子どもたちのものごとへのとりくみは実にうらやましいものがあります。

竹馬、一輪車、マット運動などへの挑戦というとりくみ、大きな箱積木での巨大建造物制作へのとりくみ、小さな手で無心にどろだんご作りにうちこむとりくみ、きうり、なす、はては稲作りにまで、また小さな生きもの、自然のいのちを見守り育てるとりくみ。そして降誕劇作り、プレゼント作りとクリスマスを迎えるアドベントのとりくみ。

そのひとつひとつのとりくみにともなう達成感のよろこび。その最たるもののひとつとして、クリスマスのいちょうさんの降誕劇がありました。フィナーレの"もろびとこぞりて"の歌声を聴きながら、晴れやかな顔を見ながら、自分たちのとりくみを立派に成し遂げた子どもたちのなんと頼もしいことよと感動し、"育ててくださるのは神様である"ことを感謝したことでした。

新しく迎える年も、子どもたちを励まし見守りながら、私たちも親としての、教師としてのつとめにとりくんで参りたいと存じます。どうぞよろしくおねがいいたします。

 

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12月「自分を生きる」「よろこぶ」

"自分を生きる"ということばを、2008年度の年間を通しての保育主題として掲げてまいりました。

現実の保育、子育てからするとやや抽象的なことば、というふうに思われるかも知れませんが、"自分を生きる"あるいは"自分を知る"ということは、人間の生涯にわたっての課題です。幼い子どもたちにとっては生きているそのことが無意識のうちに"自分とは何か"という課題に向き合っていること、幼い子たちには、まさに日々の生活そのものが"自分を生きる"ことであり"自分を知る"ことであるといえます。

みんなに遅ればせながらおずおずと竹馬に挑戦。「やった、できたじゃん」と歓声があがる。その子の赤い頬がうれしい。先生が、友だちが、いっしょうけんめい声がけして励ましをおくって、"できた!"そこに"自分を知った"よろこび、自分を生きた自負が。

聖書(旧約)の書き出し"初めに、神は天と地とを創造された。" そして混沌とした世界が整えられ、秩序と命を与えられていく。創造の業が終わったとき"神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。"(創世記)と記されている。。

そのようにして造られ、極めて良しと祝福された存在の中に子どもたちも私たちも在ります。 にもかかわらず、人間は神の秩序に自ら背を向けて裏切る在り方をするようになってしまった。 にもかかわらず、にもかかわらず、神は変わらぬ愛をもって、呼びかけてくださる、語りかけてくださる。 愛(いと)し子を私達にくださる、クリスマスをくださる、という形で。 そのことにより、私達が自分を知り、自分を生きることができるように、と。

 

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11月「気づく」

元気。意気ごみ。気づかう。気働き。いい気持ち。お天気。ご機嫌。気の毒。"気"という語にかかわることばが私たちの日常、身のまわりにはたくさんあります。

人間が生きること、人間の生活には"気"ということが大切であることがわかります。気とは辞書をひくと"生命の原動力となる勢いのこと"、そして"心の働き"とあります。さて、ここでひとつ質問。「そのこころとは私たちの躯の中のどこにありますか?」先だってこういう質問をしたところ、思わず左胸に手をやった人が多かったのですが、たしかに"心"=ハート、ハート型の原形は心臓ですから。しかしこの"気にかかる""心の働き"は実は大脳前頭葉の働きなのですね。

木の葉が美しく色づいて、秋だなあと気づく。神様がこの自然の季節の移り変わりの中で実りを与えてくださる、ありがとうございますと心が動く。竹馬に挑戦する。なわとびに挑戦する。いっしょうけんめいやればできるようになるんだ、と気づく。いっしょうけんめいやってできるようになると、なんて気持ちいいんだと気づく。お母さんの作ってくれたおいしいお弁当を食べながら、ふと食べるもののない、飲む水もない子どもたちもいるんだと気づく。

目で見、体で感じ、肌で感じ、言葉が心に届いて、気がつくことの一杯ある生活を園でも家庭でも、と心から願うことです。

 

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10月「かかわって」

いかにかかわるか―ということは教育という営み、子育てということにとって最も肝心な命題であります。私自身、50余年教育ということに携わってきて、このことをどれだけ確かになしえてきたか、と振り返る時、恥じ入る思いなのですが、今毎日この幼稚園にいて先生たちをみていると、その子どもたちとのかかわり方に感じ入ります。

その要因のひとつにこの園の理念としている保育形態―何よりも、子どもの主体的な自由な遊びを通して育つものを大切にする保育ということ―があります。子どもたちひとりひとりの持つ主体的な意欲、欲求を教師がどう察知し、くみとり、それを表現させていくことができるか、というかかわり、また個々の意欲、欲求を他の子どもたち、仲間たちのそれと、かかわりを持たせて発展、深化させていくようにしてやれるかということは、子どもたちの遊びの場でこそ最も有効に可能であるからです。

あるきっかけがあって、松本市の小中学校のPTA連合会の方々の研究にふれさせていただくことになりました。今年の研究のスローガンは〈子も親も、ともに豊かな心を育もう~感動は日々の中に~〉ということ。そして子どもたちのおかれた現状を的確に分析する中で、"家庭でのかかわりの機会が激減し、親子でのコミュニケーションの時間と体験の機会が減っている"と指摘されています。

"かかわりの薄さ"が子どもたちの人間としての成熟の未熟さや理性的な発育の不全、ひいては社会の安定や人間関係の豊かさを阻害することになることに思い及び、かかわりの中にある感動の大切さを秋の深まりの中で思うことです。

 

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9月「あそぼう!」

「"どんな子どもに、どんな人間に育てたいか"ということは最終的には教育する側の人間、つまり親、教師、大人たちのこころの豊かさ、在り方の問題に収斂(しゅうれん)していく。不断に自分を豊かに、みずみずしく養っていかないかぎり子どもたちをそのように育てていくことはできない。子どもたちに負けずたっぷりと遊び、感じ、心と精神を新鮮に保っていきたいものです。」と依頼されたある先生方の研修会での講演のレジュメに書きました。

暑いあつい夏でしたが、九月、"あそぼう"の季節です。運動遊び、運動会ごっこのシーズンです。"運動"、それは体を動かすことの楽しさを味わうことです。もちろん、原始、人は獲物をとって生きる糧とせねばならず、速く走る、目標に向かって正確に投げるというような能力を獲得する必要に迫られて、ということもあったでしょうが。

現代はそれに特有の必要感が加わります。人間らしい知能、情緒、意志を生理的に司る大脳前頭葉の発達には幼時からの体を動かす遊び、とりわけ外遊びが不可欠だといわれています。成人するとIT機器とのつきあいが不可欠になる現代社会で正常な人間として生きていくためには、という課題を負うて"あそび"を考えねばなりません。

少し理屈っぽくなりましたが、文句なし、自然の中で、少しやさしくなった光や気持ちのよい風を感じて"あそぼう"の九月です。

 

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8月「ゆったりと」

8月は夏休みの月。学校や幼稚園に身を置いていると、夏休みとは先生たちがゆったりするためにあるように思われているんじゃないかと、ふとある種のうしろめたさを感じがちですが、夏休みとは子どもたち学生たちが、この暑い季節をゆったりと過ごすためにあるということ、そして一年のサイクルの中で、年末年始の休みとか春休みとか5月の連休というようなものも、あるリズムの中でメリハリのきいた生活をできるようにという趣旨でありましょう。

大人になって夏休みというようなものが得られなくなったとしても、子どもの頃の夏休みのゆったりと過ごした日々をなつかしく思い起して、そのゆったりが子どもにも大人にも大切なことに思い到っていただいて、ゆったりと子どもたちとつきあう、あるいはともに居る時間を作っていただければと願っています。

しかし、かく申す私。この夏を迎えて、心落ち着かず、ゆったりとできない思いに心塞がれます。"地球温暖化の影響"とか"迫り来る食料危機"というような言葉に、待ったなしに深刻に人間としての生き方を問われていて、その答えが見つからないからです。

"plain living"、"質素な生活"などと唱えてみるのですが、人間が自然の一部であるという意識を取り戻して質素で謙虚なゆったりとした生活、そんなことを、ゆったりとした生活の中で考えてみたいと切に願うこの夏です。

 

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7月「いきいきと」

"ほんとうに園じゅうがなんといきいきしていることだろう。"
大榎の下の山の上の切り株に腰かけて、園庭を見まわしながらの感想です。
庭のはしからはしまで、それは勢いよくトロッコを押して走り抜けることを繰り返す子がいる。

転んでもころんでも、めげずにジャングルジムの周りで一輪車に懸命に挑戦している子たちがいる。すいすいと上手に乗りこなせるようになった子たち、その子たちのこの間までのジャングルジムの周りでの努力を思いおこす。
ウッドデッキの縁先で一団の子たちが無心にドロダンゴを丸めている。掌の上で次第にツルピカになっていく経験が、どれだけその子の人間形成に大きな意義があることか、を思う。その真ん中でひときわ大きく出来上がっている先生のツルピカダンゴの立派なこと。子どもたちに負けじとばかり。

玄関前のログテーブルで何やらおもしろそうなことが始まっている。シャボンを削ってボールに入れて、シェイカーでかき混ぜている。むらがっている子どもたちの中のボールにソフトクリームのようなきめ細かい泡が、わあー、もりあがってくる!歓声があがる。

その横にたんぽぽさん(年少児)たちの小さな田んぼがある。いつも誰かが熱心に覗きこんでいる。まだ小さな稲の苗の植えられたその空き缶の田んぼの中にはオタマジャクシが元気に泳いでいるんだ。足の出たのもいる。手の出たのもいる。あっ、まだしっぽがついたままで、もう旅立とうとしているのもいる。覗きこんでいる子どもたちの自然の不思議さに感じ入る目の輝き。
いきいきした様子、まだまだいっぱい。紙数が尽きました。庭のはしに、子どもたちのいきいきした様子を見たさに、はやヒマワリが一輪、咲きだしました。

 

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6月「自分らしく」

"自分を生きる"あるいは"自分らしく生きる"ということを考えてみたいと思います。この欄は鈴蘭幼稚園の保育にかかわって、その月の心をお示ししてご一緒に考えていただく欄なのです。"安心して(4月)"、"みつける(5月)"と月の主題とすることばを掲げて、子どもたちの気持ちや姿を通して考えてきました。

さて、今月は"自分らしく"ということばを掲げましたが、自分らしく生きるなどという意識は、どう考えてもこれは大人の意識です。子どもたちはみんなひとりひとり無心に子どもの時を生きています。それがとりも直さず"自分らしく生きている"ということに他ならないわけですが、そこに大人たち、親や教師の"こうあってほしい"という思い、おもわくがよい意味で、また時に見当違いの意図をもって、加えられることになります。

そこで、どういう"らしく"がよいのだろうということになります。そして、問われるのは大人自身の"自分らしく生きる"、"自分をどう生きるか"ということのスタンダードだということになります。私たちは子どもたちに"こうあってほしい"という願いを持つのと同じ願いを、自分自身に対して持っているでしょうか。 子どもの自律性の発達を願うなら、向き合う大人も自律的であることが求められます。積極性、感性、寛容さ、などなど。

子どもが自分らしく生きることを願う時、親も保育者も自分自身の"自分らしく生きる"、自分で納得できる"自分を生きる"と向き合うことが大切、ということになります。
そして、それは一人ひとりの持ち味が生かされながら、創造主としての神の心にそうものでありたいとの祈りによって立つものであることを思います。

 

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5月「みつける」

4月の保育主題は幼稚園が安心していられる場所であることをどの子も感じて、新しい年度の園生活がはじめられるように、との願いをこめて"安心して"という主題でした。

1ヶ月が過ぎて、ひとりひとりの子どもたちがみんなそれぞれのしかたで、お母さんからはなれても、まわりに仲間たちや先生がいて、そこに共に過ごす喜びや安心があって、"あれ、おもしろそうだぞ"ということがあって、砂場や積木や葉っぱやお花があって、そこで遊ぶことができる、とそんなさまざまなことをみつけることができるようになっています。

初めていちょうさん(年長児)がたんぽぽさん(年少児)のお相手をして春風の中を、あがたの森まで散歩に行ってきました。緊張していちょうさんがたんぽぽさんをエスコートして行ってきた様子が微笑ましく、3時の会(教師会)で語り合われました。"あー、たのしかった"というたんぽぽさんの喜びのかげに"おれ、もういちょうさんやめたいよ"と思わずもれた、いちょうさんの初めての大役を果たしたあとのことばも報告されました。

子どもにとっての新しい人間関係の新しい体験の中でみつけたものの大きさ、価値を思います。
みつける。新しい発見に、新しい体験に、新しい挑戦に、子どもたちは心躍らせて、これからたくさんの"みつける"を経験していきます。
私たち大人も、子どもたちの心のときめきに心を、目線を、よせながら、なにげなく過ごしてしまったことの中にも、改めて心にしみる"みつける"をたくさん経験できるといいですね。

 

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4月「愛されて」

けさ、幼稚園の木の上でホーホケキョってうぐいすが鳴いていましたよ。
久しぶりで幼稚園に来てお花がきれいに咲いていますね。
庭のまわりの水仙の花、ヒヤシンスも咲きはじめましたよ。

春です。
春って神さまがこの私たちの生きている世界をこんなに愛してくださっているんだって胸いっぱいに感じます。
神さまがこの世界を愛してくださる。
そしてこの世界を美しくしようとしてくださる。
こんなに愛してくださる、と思いながら、さっき読んでいただいた聖書のことばを読みます。

「あなたは神さまに愛されている子。」
私たちは愛されているって言ってみる。元気が出てきます。
私たちは愛されているって言ってみる。安心します。
愛されているっていう元気で、愛されているっていう安心の中で、今日から新しいすみれさん、新しいいちょうさんです。
あれっ、たんぽぽさんは?
そう、明日新しいたんぽぽさんが、そして新しくすみれさんになるお友だちも入園するんだね。

新しく幼稚園に入るお友だちのことを考えてみようか。
みんなも新しく幼稚園に入園した時がありました。
幼稚園に送ってきたお母さんとバイバイするのがとっても不安な人もいたよ。
不安で泣いちゃった人もいたよ。
でも、先生もお友だちもみんな「だいじょうぶ、だいじょうぶ」って言ってくれて、
やさしく親切だったから安心して遊べるようになりましたね。
さあ、今度は、明日からはみんなが「だいじょうぶ、だいじょうぶ」って言ってあげる、やさしくしてあげる番だね。
できる?できるよね。
「あなたは神さまに愛されている子。愛によって歩きなさい。」ってそういうことなんだよね。
そして神さまが「大丈夫、大丈夫」って見ていてくださいます。

 

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